
「まだ元気だから、遺言書はもう少し先でいいかな」
そう思っていらっしゃいませんか。
お気持ちはよくわかります。遺言書は「死ぬ準備」というイメージがありますから、元気なうちは気が進まないものです。
ただ、ひとつだけお伝えしたいことがあります。遺言書は、亡くなる直前ではなく「判断力があるうち」にしか書けません。 ここを取り違えると、気づいたときには手遅れになります。
なぜそうなるのか。順に見ていきましょう。
1 認知症は「特別な人の病気」ではなくなった
まず数字から。
厚生労働省の資料によると、2022年時点で65歳以上の認知症の方は443.2万人、軽度認知障害(MCI)の方は558.5万人。合計すると高齢者の約28%にあたります。
MCIとは、もの忘れなどの軽い認知機能の低下はあるものの、日常生活は自立していて認知症とは診断されない状態のこと。つまり「まだ大丈夫」に見える段階です。
将来推計も出ています。
| 年 | 認知症高齢者数 | 有病率 |
|---|---|---|
| 2022年 | 443.2万人 | 12.3% |
| 2025年 | 471.6万人 | 12.9% |
| 2030年 | 523.1万人 | 14.2% |
| 2040年 | 584.2万人 | 14.9% |
厚労省自身が「誰もが認知症になり得る」という認識を示しています。
ご夫婦でお二人とも70代なら、どちらかがこの状態になる可能性は、決して低くありません。
2 遺言書には「書ける能力」が必要
ここが核心です。
民法963条は、遺言をするときに遺言能力がなければならないと定めています。遺言能力とは、自分の遺言の内容と、それがどんな結果を生むかを理解できる力のこと。
誤解されがちですが、認知症と診断された=即無効、ではありません。 判断されるのは診断名ではなく、遺言書を書いたその時点の能力です。
では何で判断するのか。裁判例では、遺言者の心身(特に精神)の状況、遺言内容の複雑さ、相続人との関係や遺言を作るに至った動機——このあたりが総合的に見られるとされています。
ここで大事なのが、内容の複雑さという要素です。
「全財産を妻に」というシンプルな遺言と、「自宅は長男、アパートは長女、預金は3人で3分の1ずつ、障害のある次男には負担付きで……」という複雑な遺言。後者のほうが、求められる理解力は高くなります。
つまり——込み入った配慮が必要なご家庭ほど、早く書かなければならないのです。障害のあるお子さんのために丁寧な設計をしたい方こそ、時間の余裕が要ります。
3 後見が始まると、遺言はほぼ書けなくなる
判断力が失われたあと、成年後見制度を使えばいいと思われるかもしれません。
でも、後見人は本人に代わって遺言書を書けません。遺言は本人だけの権利だからです。
ご本人が書くことも、事実上とても難しくなります。民法973条は、成年被後見人が遺言をするには、判断力を一時的に回復したときに医師2人以上の立会いが必要と定めています。さらに立ち会った医師は、遺言時に判断力を欠く状態でなかった旨を遺言書に書き添え、署名押印しなければなりません。
現実に、医師2人の予定を合わせ、回復したタイミングをとらえる。ハードルは相当高いものです。
なお、保佐や補助の段階であれば、単独で有効に遺言できるとされています。「後見」まで進むと一気に厳しくなる、とご理解ください。
判断力が落ちたあとの世界を、表で比べてみます。
| できること | 元気なうち | 後見開始後 |
|---|---|---|
| 遺言書の作成 | 自由にできる | 医師2人以上の立会いが必要 |
| 内容の書き直し | 何度でも可能 | 事実上きわめて困難 |
| 生前贈与 | できる | 本人の財産を減らす行為は原則できない |
| 自宅の売却 | 自由にできる | 家庭裁判所の許可が必要 |
| 相続税対策 | できる | 原則できない |
4 「書けたはず」が争いになることも
もうひとつのリスクがあります。ぎりぎりのタイミングで書いた遺言書は、あとで有効性を争われやすいのです。
公正証書遺言でも同じです。公証人が関与していても、遺言時に遺言能力がなかったと判断されれば無効になり得ます。実際に公正証書遺言が無効とされた裁判例もあります。
長谷川式という認知機能の検査をご存じの方もいるでしょう。合計点の目安として20点以下が認知症の疑いとされますが、これはあくまでスクリーニングの目安で、法的判断の絶対的な基準ではないと説明されています。点数だけで決まるわけではないのです。
裏を返せば——明確な線がないからこそ、揉める。「母は書けた」「いや書けなかった」で、ご家族が何年も争うことになります。
余裕をもって書かれた遺言書は、この争いの芽そのものを摘みます。
5 今日からできる3つのこと
やることは、そう多くありません。
まず、財産を紙に書き出すこと。預金、不動産、保険。それだけで頭が整理されます。
次に、遺言書を作ること。手書きして法務局に預ける自筆証書遺言なら、保管申請の手数料は1通3,900円。公正証書遺言なら公証人が関与するので、内容面の安心感があります。
最後に、任意後見契約を合わせて考えること。判断力が落ちたあとの財産管理や契約を、信頼できる方に任せる契約です。公正証書で結び、判断力が低下したあとに家庭裁判所が任意後見監督人を選んで効力が生じます。
遺言書は亡くなったあとの備え。任意後見契約は生きている間の備え。両方そろって初めて、途切れのない設計になります。
まとめ
遺言書を書けるのは、判断能力があるうちだけです。そして認知症は、高齢者の約28%(MCIを含む)が関わる、ごく身近なものになりました。
「まだ元気だから」は、実は「今こそ書ける」という意味でもあります。
書き直しは何度でもできます。完璧な1枚を目指さず、まず1枚。それで十分に前進です。
ご自身やご家族に合った形をどう組み立てるか、迷われたときは、お気軽にご相談ください。
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